アルヴィン・ルシエ、「音楽」と「言葉」の境界線

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先週、アルヴィン・ルシエ(Alvin Lucier)のライブに行ってきた。
「音楽家」という言葉ひとつでは、表現しがたい彼の存在。
エヴァー・プレゼント・オーケストラ(Ever Present Orchestra)を率いてのそのパフォーマンスは、今までに体感したことのない、未知の領域そのものだった。
「前衛的」とか「反発」といった、ただ固定概念をぶっ壊すようなものではなく、すべてをひとつずつ解体し、それらを丁寧に再構築し、時間軸を超えたスピードで、ものすごくゆっくりと(厳密に言うと「ゆっくり」なはずなのに過ぎていく時間はあっという間、という不思議な感覚)私たちの目の前で繰り広げられた。
それは「表現」ではなく、「会話」であり「問いかけ」だった。
会場にいる人たちは意識を集中させ、ルシエの提示を見逃さないように、聞き逃さないように、感じ損ねないように、注意深く凝視していた。(中には目を閉じている人もいたけど)
あの時、流れていた時間こそが、私たちの『本質』であると、確信した。

 

 

私たちは、生まれてきたときは、すべてのものが「新しい」。
見るもの、聞くもの、感じるもの。
とにかく、全部が「はじめて」だから当然だ。
ただ、時間が経過とともに経験を重ねていくので、その「新しい」感覚は必然的に減っていく。
あらゆるものに、慣れていく。
そうすると、いつの間にか、あらゆるものの「境界線」が曖昧になっていき、溶け込んでいってしまう。
すべてのことが「当たり前」になってしまう。
「当たり前」のことなんて、本当は何ひとつ、ないのにね。

 

 

人間は、「分ける」生き物だ。
国も、料理も、色も、病気も、罪も、思想も、植物も、性別も、感覚も、何もかも。
物事は分けられ、整理され、それぞれに名前がついている。
それ自体が悪ではないし、整理をするために必要なのはとてもよく理解できるし、恩恵もたくさん受けているとも思う。
ただ、それに固執しすぎたり、「分けること」が目的になったり、「分けたもの」の奪い合いやそれによる争いが生まれたりするのは、まったくもって『本質』ではない。
目安として「分けたもの」が、武器になってしまうなんて。
「分けたこと」によって、誰かが不幸になってしまうなんて。
もう、本当に、心が傷むばかり。

 

 

私は、「音楽」と「言葉」には厳密な境界線はない、と感じていたことを原動力にして、このブログを始めた。
「1+1=2」というような、数学的なこととは真逆のベクトルだ。
はっきりとした答えがあったとしても、それはすぐに、消えていくかもしれない。
ただ、そこになにかしらの「ヒント」や「きっかけ」や「ひらめき」があればいいなと、毎日、毎時、毎分、毎秒、想いを馳せている。